どうにもならないって幸せ
悩むことは幸福だと言う人間がいたら心の中でボコボコにする程度の人間性。
悩みのない人生なんてない、それでもみんな努力をしたり、気にしないフリをして生きている。少なくとも社会は大多数のそう言う人たちの妥協と諦念で回っている。
では、こうやって本来ならば明日の仕事に向けて寝ていなければいけない私は何をしているのだろうか。
布団に入り、携帯をいじって、思考を吐き出す自慰行為に耽っている私は何のために存在しているのだろうか。
頑張ろうと思えば明日からバイト探しをしたり、新しい趣味に打ち込んだり、株やFXなどの勉強をして社会の新しい仕組みに迎合したりと出来るはずなのだ。
時間は有限だが、時間の使い道は無限にある。
それを生かすか殺すかは、全て自分の責任だ。
今の自分の人生、自分の悩み、自分の苦しみは全て自分が選択したものだ。
例えば、恩義のある母が病気になって家督を継がなくてはならなくなった時。
やろうと思えば通帳など全て盗んで家から離れることだってできるわけだ。
人間性だとかプライドだとかをかなぐり捨てても法に抵触しない範囲であれば人間は何をしてもいい。
今、私が布団の中で小腹が空いたからと起き上がって車に乗ってコンビニに行ったって誰も咎めないし、ヒトカラに行ったっていいのだ。
でも、やらない。できない。何故だろうか。
やりたいことのはずなのに、選択の自由は私に一任されている人生のはずなのに、何故やらないのか。
面倒臭いからだろうな。
どうにもならない、どうにも出来ない は諦めの思考停止だと思っている。
人間は常にどうにか出来るように考えなくてはならない。
何故ならば人は全て自分の人生を選択し続ける義務があるからだ。
周りの環境のせいでこうなった、というのは全て嘘だ。
人生は全て自分の意思で掴み取ったものだ。嫌なことを嫌と言わなかった、好きなことを好きと言えなかった、それは全て自分がやらなかっただけだろう。
親に言われて、周りに言われてというのも反発しようと思えばできるはずだ。その結果勘当されても、殺されても、それは自分の意思で決めた道だ。恥じることは何一つないまっすぐで正しい道だ。
何故、そうしないのか。
それが理想論の正しさ且つ社会で嫌悪されている矛盾した思考だからだね〜。
不思議!!
今まで語っていた 自分で自分の人生を選択することの正しさ と決して同居できない思想
「他人にやられて嫌なことはしない。他人を常に思いやること。」
なんて身勝手な思想なんだ。でも人間かくあるべきというものでもある、実際遊びに誘った人間がゲームやりたいから無理って言われたら私は普通にキレるしな。
つまり人間的に完璧な人間とは、常に自分のやりたいことを探し、そのやりたいことを達成しつつ、他人を慮り、他人の夢も応援できる人間だな。うわ、なんかちょうど折り合いつけて出来てる人間いそうだなー、気持ち悪い。
理想の人間像のことを考えていると、自分の惨めさを認識してゲボ吐きそうになるな、吐いていいか?オベッ
そうして今夜もどうにもならないなあって諦めて、私は私のいつも通りを過ごしていく。将来への投資も何もせずに日々を生きていく。たまに立ち止まって自分の至らなさを認識しては過去に責任を投げつけて無責任に未来を生きていく。
そんなどうにもならないって幸せを認識する頃には手遅れなんだろうな、って未来に絶望だけがある。
将来への期待、焦り、その全てが無意味なことを第三者視点で気づけているフリをする驕り。
はぁ、どうにもならないな。